海舟文庫

あだ名によって親密度がかわるのか

 「お〜いかいしゅう〜」いつもこうやって呼ばれる。あだ名ではない。本名だ。僕は、あだ名よりも本名で呼ばれたほうが嬉しい。嫌なあだ名もあるからだ。「メガネ君」とか「めがね丸」とかだ。なぜ、メガネという言葉に反応してしまうのかわからないが、メガネという言葉でいじられている気がしてならないのだ。メガネは目が悪いから掛けてるのに眼鏡っていう言葉でいじるんじゃねえって心が思っているのかもしれない。

 まえ、学校で討論会をしたとき、ある議題が上がった。「あだ名は必要だろうか」という議題である。必要だと思っている側にあだ名のいいところとはどこですかと質問すると、「あだ名で呼び合ったりすると、場の雰囲気が和んだり、親密度が上がったりする。」といっていた。たしかにあだ名で呼ばれたりすると、「ああ、仲間がいるんだ。」という気持ちにさせられるかもしれない。そして結局あだ名はあってもいい。という結果になった。たしかにあだ名はあってもいいかもしれない。でも、あだ名が嫌な人もいるかもしれない。僕みたいに。例がある。みずきという名前の人がいる。その人は、水と呼ばれるのを嫌がっている。たしかにそういうのほっとけばいいじゃんって思う人もいるかもしれない。ほっとければいいのだ。でもどうしても嫌な時があるだろう。そんなときは注意するしかないだろう。

 さて、本題に入ろう。本当にあだ名によって親密度が変わるのか。僕は変わると思う。理由は2つある。一つ目はじぶんの体験からだ。僕は友達ができない。本名で呼ばれている人はやはり友達ができないのかもしれない。まあ他にも理由はあると思うが。そして、学校であだ名で呼ばれている人は友達がとても多い。

 二つ目は親密度とあだ名の関係からだ。親密度というのは、場の雰囲気をなごませるというのに関係あるような気がする。場の雰囲気が和むとその場にいる人達は、落ち着いたり、安心するかもしれない。その安心感はやがて絆になってくる。僕の数少ない友達の一人は、僕が困っているとき、すぐ場の雰囲気をなごませてくれる。だからずっと友達のままなのかもしれない。そして、その友達はみんなから好かれている。そしてその人自体もあだ名で呼ばれている。この2つの理由から僕は変わると考えたのだ。

 でも一方で、変わらないと思うところもあるのだ。なぜなら、僕は友達と長くいることはできないが、自分の殻を破って初めてあったひととなら、仲良くできるし、自分とは同い年ではない人とは意外と仲良くできるからだ。仲良くできるのだったらあだ名は関係ないのかもしれない。

 今気づいたが、僕、実はあだ名で呼ばれている。学校の一年生から、「団長さん」と呼ばれているのだ。なぜ団長なのかというと今年の運動会で赤組の応援団長をつとめて、一年生の面倒を見てやったからだ。見てやったていうのは上から目線だが本当に見てやったのだ。一年生が喜ぶように応援歌とかもアレンジしたり暇な時、一年生に応援の仕方を教えたりしたからだ。その結果、団長さんと呼ばれるようになったのだろう。

 この団長さんという話を書いていて思った。あだ名で呼ぶから親密度が上がったりするのではなく、親密度が上がるからこそ、あだ名ができるのだということに。僕は、団長さんと呼ばれるから、一年生の面倒を見たのではない。一年生の面倒を見たから、一年生に団長さんと呼ばれるようになったのだ。

 僕は大きな間違いをおかしていたのかもしれない。メガネ君というあだ名は親密度から生まれた、宝物であって僕をいじるものではなかったのだ。でもそれを嫌がったせいで友達ができなくなったのかもしれない。でも、嫌なものは嫌だからなあでも親密度は大切だからなあ。でも・・・・・と悩んでしまう団長さんでした。